呼吸・整体3つのワーク「動的瞑想」の世界

ガツンときたのは、『何か動きを生じさせたら、次の動きが生まれるのを待って、生まれた動きに応じて従って動いていく』

体には、そうなってしまうという動きがあります。それに従って動く「動的瞑想」というワークの解説にあった【生待応従納】という言葉が意味することです。ガツンと芯を食った衝撃でした。スクール基礎科を終えて応用科の秋、1年目で学んだ内容を更に深めていく過程でのことでした。

身体はとても正直です。

動き出した身体は、待っていれば、全身に連動が勝手に起こります。ですが、待たずに、先に頭で動かしてしまうとどこか力んでしまいます。身体は身体の理屈に従っていて、頭の命令をすんなり受け入れはしないのです。力めば、息は止まってしまいます。つまり、息が止まる動きは、身体通りではないのです。上手く動けているかどうかは息が教えてくれます。

何事にも順序があるということを、そんな当たり前のことを、動的瞑想でうまく動けなくて、初めて我が身で知ったのです。

そして、それが動きに限ったことではないと、頭に浮かんだのは、子供が通っていた保育園での授業参観のときの光景です。子供の工作を、横にいるお母さんがやっているのを見たときに感じた、強烈な違和感。

「それやっちゃったら、意味がない」 お母さんが”作ること”を横取りしちゃったら、子供の経験ではない。生じていない。でも、自分もやっていましたね。良かれと思って、子供がするはずのことを私がやってしまったこと。体験する機会を奪っていたんですよ。ガツン、ときた訳です。動的瞑想が20年以上も前の記憶とリンクして、そういうことか、そんなことやっちゃっていたか、とひとり反省してしまいました。

身体がやっているひと繋がりの動きの中にある、生待応従納という流れ。流れは全部でひとつ。

動的瞑想で、私が自分の体にしていたことは、自然な動きが起こってくる前に、先回りしてやってしまうということ。身体の言う通りじゃなく、頭のいうことを聞いて途中を飛ばしてしまうこと。待てなかった、ということ。待てない自分。待てないのは不安から?不安は自信のなさ?待てないのは動きだけじゃないのでは。当時そんなことを考えていました。

待って、体に任せて動く世界。シンプルなワークが想像以上に自分を掘り下げます。

今は、動的瞑想を繰り返していくと、徐々に動きが自分と一体になってきます。動きがつるりとなってくる。始めはチェックする自分がいて、身体の力みや不要な先回りを拾うのですが、そのうち消えて、ただ動きを見ている感じになってきます。そうすると、動きに身体が乗っかってきます。そしてどんどん重力がわかるようになってくる。瞑想、ですね。

私にとって動的瞑想は、身体に動きの初期設定をしている感じです。動く身体を持つどんな人にも、つまり全ての人に大事なワークです。

*動的瞑想とは

呼吸・整体の根幹となる3大ワークのうちのひとつ。立位で前屈、側屈、回旋の3種類の動きを、身体がそうしたくなる動きに従って動くというもので、そのとき息は止まらない。自分の身体を感じながら動く基本の形。

〈 Ayus 呼吸の教室 〉

愛知県日進市栄3丁目2214

( MAREE HAUTE 2F )

© Ayus / Akiko Tachibana